「学級崩壊の責任は保育園だ!」と言われたら、どうする!

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げ・ん・き No.57特集より

はじめに

思春期を迎えた子どもたちから、いろいろな問題が吹き出し、教育界は今、騒然となっている。 多くの識者は「思春期の問題は乳幼児期の育児と深い関係がある」ことを見てとっているが、行政はいつものように腰を上げるのが遅い。遅いどころか、お得意の対症療法的施策しか考え出せないので、事の本質にまで到底届きそうにない。
このまま問題を放置させていたら、もうすぐ、社会から突き上げがくる。「学級崩壊の責任は保育園だ!」と。
折しも、国は少子化問題で新たな対策を打ち出した。その筋によると、保育や介護などの家庭内にあるものを外部委託すると、何兆円もの経済効果が図れるという。
経済や自分たちの作った日本のシステムを維持しようと躍起になっている行政担当者には社会の根幹となる家庭や家族の問題をしっかり見つめる力はないのだろうか。少子化問題で打ち出された施策が日本の家族や保育の根本を覆してしまうような問題を含んでいることに気づかないのだろうか。
 

保育士は意識を変え、現場の状況を発言しなくてはいけない。

現場の保育士の声は新聞に掲載されることがない。困っている様子が見えてこない。みんな本当に大丈夫なのだろうか。言いたいことは山ほどあっても、それを言う場がないからだろうか。それとも、みんな辛抱強くてどんな状況にも耐えられるのか。何か言って欲しい。私は少子化問題を始めとする、現在の保育園に対する施策は根本的な視点を欠いていることをお伝えしたい。特に子育てに関する家庭と保育園の役割を考えたとき、本末顛倒している現在の状況を正さなくてはならないと考えている。
保育園が善の役割を持つ社会的存在として存続するには、子どもの立場からの意見を言うことが必要である。日本はおかしな国で、ひとつの波が押し寄せるとみんながそれに流され、また別の波がくるとこんどは別の方向に流される。世論は働く母親からの主張が大勢になっているようだが、これだけでは、まずい。バランスが必要なのである。だから、子どもの状態を知っている保育士からの意見が聞かれないことは絶対におかしい。幼い子どもたちは何も言えない。園長や保育士たちは、今、発言しなくてはいけないと思う。
 

親の状況はわかる。しかし、子どもはどうする!

働く母親をめぐる労働環境は非常に厳しい。母親の人生を考えた時、仕事は大きな意味を持つ。しかし、子どもはどうなるだろうか。
平成十一年一月発行の朝日新聞の「アエラ」の記事「夜まで預ける働く母親の葛藤」などを読むと、仕事を続けるのにここまでするのか、と絶句してしまう。生き馬の目を抜くような競争社会で必死に生きている親の状況はわかる。同情だけでは、どうにもならない。この厳しい状況下での親の生き方に対して誰も反論はできないだろう。
しかし、しかし私は言わしていただく。
「親はそれでいい!」と。
自分の目的追求のために自分で選んだ道ではないか。
「子どもはどうなる。」
親を求める信号を必死に出している姿が見えないのか。親の生活を考え直してくれという子どもの願いが見えないのか。子どもはやがてあきらめ、心の奥に悲しみも喜びも埋没させてしまう。そして、時がきてその問題を爆発させる。こんな単純な子どもの筋書きが分からないのだろうか。いや、保育園に子どもを預けている子育て真っ最中の親たちには分からないのかもしれない。
母親であるよりも、自分の人生を作っていきたいと考えるのだろうか。子どもの問題よりコマーシャリズムに踊らされた質の高い生活の方が大切に思えるのだろうか。目の前にぶら下がっている住宅ローンも深刻な問題だろう。今では、生活経済自体が大変な状況でもある。
しかし、子育てより大切なことがあるのだろうか。子どもからもらう幸せはとても大きい。みんな幸せを求めて家庭をつくるのに、どうして求めてもいない筋書きを書いてしまうのだろうか。 子どもは5歳頃までは、親の都合でどうのようにもなる。だから気がつかない。親は後で大変な揺る戻しがくることが想像できないのかもしれない。思春期になり問題が爆発する。保育園や学校に子育ての基本を依頼してきた親には、子どもの問題に正面から立ち向かう力はついていない。子どもが登校拒否や家庭内暴力、非行に走って初めて困ったと思うようになる。しかし対応の仕方が分からない。学校のせいにしても仕方がない。保育園のせいにしても仕方がない。責任は誰が取ってくれるのだろうか。誰も取ってはくれない。自分で取るしかないのである。しかし、親にはその力が育っていない。子どもは不幸である。人生の出発点で、まだ自分も創り出していない段階で暗礁に乗り上げてしまう。オールを使って岩から離れようとしても、そのオールも流されてしまう。そのうち、ボートは大きな波に飲まれ、ひっくりかえってしまう。助けてくれ!と叫んでも、親も家庭も誰も助けることができない。これが現代の多くの子どもたちの姿ではなかろうか。
 

先ほどの「アエラ」の記事に次のようなくだりがある。

 

後ろめたさを吹っ切る
長男が四、五歳だったころのこと。ある日、ぽろぽろ泣き出してこう言うのだ。
「お母さん。うちにいて」何と言えばよいか思い浮かばなくて、自分も泣いた。「お母さんは仕事やめたら、お母さんじゃなくなっちゃう」「お母さんはあんたのお母さんで、仕事もしている人なのよ」支離滅裂にしか答えられず、ただ泣いた。長男は二度と、「家にいて」とは口にしなくなった。それから、ずうっと考え続けている。・・・なぜ仕事をやめられないのだろう?いまだにはっきり説明できない自分がいる。
「子育てが私の仕事」と誇りを持つ専業主婦の母に育てられた。子供時代の記憶と言えば、学校から帰るとケーキを焼いて待っていてくれる母の笑顔。幸せだった。
そんな母の目には乳飲み子を預けて働く娘の姿は理解を超えていたのだろう。長男を盛んに不憫がり、「あんたみたいな人に、子どもを生んで育てる資格なんかない!」とさえ言い放った。ショックは大きかった。自分の人生なんだ、と反論しても、どこかでうしろめたさを拭えず、いつも子どもに対して心の中で「ごめんね」と叫んでいた気がする。
それが吹っ切れたのは、ここ二年ほどだ。三年前に長女を生み、産休で家にいたころ。気がつくと、小学校にあがった長男に一日中、文句ばかり言っていた。「早くしなさい」「そんな言い方したらお友達に嫌われるよ」
外に出た方がいい、と悟った。自分のような性格の人間は、仕事をしている方がいい。「放任の口実になってしまってはいけないけれど、親は子供を見過ぎてはいけないと思うんです。」いろんな人がいて、いろんなパターンがあっていいじゃないか。今はそう開き直っている。

 
多くの親はこんな風に自分を正当化させる。そして、自分を納得させる。こんな親の言いわけに、子どもは納得しているだろうか。子どもが親を求める時期はそんなに長くないことはご存知だろうか。5歳くらいになると、友だちとの関係が広がり、保育園が楽しいと感じるようになる。シュタイナーも7歳までは神の子と言っている。親は子どもが親を求めるときに子供のそばにいてやればいいのだ。特に2才頃までの自我の形成期は親の役割は大切である。これは保育園やその他のものでの代替が効かない。
 

労働時間をまず短くして、家庭が成り立つようにしてほしい!

今、具体的に対処しなくてはならないのは、乳幼児を持つ両親の労働時間の軽減である。家庭が成り立つような労働時間と通勤時間を考えていかなくてはならない。
そもそも家庭が成り立たないような仕事のしかたが間違っている。子どもたちが人との関わりを持てないのも、親との関わりが持てるような生活時間を持っていないからだ。
子どもがまとわりついてくる時代こそ大事である。そのときにしっかりその子を見つめる時間を作ってあげたい。そうすれば、多くの子どもたちの心は満たされて行くだろう。
乳幼児を持つ母親の労働時間は6時間にできないだろうか。育児休業も2年にならないだろうか。これは心からの望みである。家庭が成り立たない社会とは、「人間を不幸にする日本というシステム」と言われても仕方がないではないか。
 

いま、保育園では

保育園では、子どもたちがさまざまな信号を出している。
不安、孤立、怒り、暴力、独占。本来あるべきはずの、天使の輝きのような笑顔が消えてしまった子どもの存在にでくわしたとき、私は大きな危機を感じる。
保育士たちが一生懸命かかわり、ようやく何カ月かかかって、また時には何年かかかって笑顔を取り戻すことが出来ても、ふとした瞬間に、何ともいえない寂しさを見せてしまう子どもたち。
この寂しさは、この子から一生消えないのかもしれないと思うとやるせなくなる。これが、思春期に別の形になって出てくる。
保育士は親に子どもの状況を一生懸命伝えても、たいていは気がついてくれないことが多い。
保育園の時代なら、何とか取り戻せる。しかし、心から子どもの問題に目を向けてくれる親は少なくなっている。やがて、子どもはあきらめる。親との関わりを自分から断つ。そして大人を信頼しなくなる。大人を信頼しない子ども。これこそ私たちは恐れなくてはならない。
このような子どもに対し、保育士はどれだけの心と労力を費やすのか。今では、全国どこの保育園でも見られることだ。それほど、子どもの心は荒んできている。保育園は社会を予言している。保育園でおきている現象は必ず何年後かに社会で起きる。
 

家庭がだめなら保育園でと考えるのは過ちではないか

日本保育協会の保育界平成十年十一月号に日曜・祝日保育についてのリポートがあった。この保育園では、(3歳以上の子に多いそうであるが)母親の休みの日も登園し、一年のほとんどを保育園で過ごすそうである。
「日曜・祭日保育における親子関係の希薄が多少問題になるが、現に働いている美容師や看護婦の子どもにとっては家庭ではほったらかしにされたり、店の片隅におかれたり、また他へ預けられたりすることになるので、日頃から馴染んでいる園で、少人数で家庭的に保育される方が子どもにとってはやすらぎを感じることになる。」
またある園では、多くの子どもたちの生活が親に合わせた夜型になってしまい、朝登園しても、寝ぼけた表情の子どもが多かったために、朝、登園してからすぐお昼寝の時間を確保したようである。
十年も前のことになろうか、保育団体の大会で「今の母親は子育てをできない。だから、私たち保育士が代わって子どもたちを育てるのだ!私たちは、おばあちゃん保育でがんばろう!」といきまいていたことがあった。
これらが、現実の状況を放っておけない保育園の保育士から出た解決の方法だろうが、果たしてそれでいいのであろうか。私には本末顛倒としか思えない。
現在、一般的な保育園で、子どもたちが一年間に保育園に通う日数は、母親が職場に出勤する日数より56日も多いとのデータがあるそうである。
 

保育園が家庭の役割を代替すればするほど、家庭は本来持たなくてはならない力を失っていく。

日本の行政は発想が狂っていると、私は思う。
いろいろな問題が吹き出している日本の子どもたちの状況を考えると、この国の方針は異常としかいいようがない。
北欧のフィンランドなどでは、子どもを10時間以上保育園などに預けてはならないという法律がある。12年も前に知った事なので現在はどうなっているか分からないが、子どものことを考え、法律で定めている。
それなのに日本では無節操といえるほど保育時間を長くしている。延長保育、夜間保育。休日・祭日保育。年始年末保育。そして、それを保育の質の向上と堂々と述べる行政の担当者もいる。保育の質をどのようにとららえているのだろうか。どうしてそう思えるのか。首を傾げるのは私だけだろうか。
保育園にいる時間が長すぎて、家庭での時間をとることができないという状況は何を生み出すのだろうか。「家庭には家庭の役割がある」で後述するが、多くの子どもたちは、親との関係を持ちたいと訴えている。現代の子どもの問題は親子関係を根にしていることが非常に多い。
家庭が成り立たないような長時間保育や親の利便性だけを中心に考えた国や行政の施策は、単に、家庭崩壊を助長しているだけではないかと、私には思えるのである。
「現実に横たわる問題は放置できない。」これが多くの行政担当者の答弁である。
そして、現実に困った状況にたいして何らかの手助けをしないではいられない優しい心の持ち主である保育士もたくさんいる。しかし、次のようなパラドックスを知らなくてはならない。
「保育園が家庭の役割を代替すればするほど、家庭は本来もたなくてはならない力を失っていく。」
そして家庭は子ども問題に対して対処できない存在になっていく。子どもの問題が吹き出した家庭がほとんど無力と言っていいような対応しかできない事例を見る度に、家庭は家庭の力を育てなくてはいけないと私は思う。
 

一般的な対応と特別な対応を区別しないと、特別なことと一般的なことが混同される。

現在の国や行政の施策は、特別な人の声を受けてそれを一般化しようとしているのではないか。それくらい、特別な対応を一般の保育園が果たすよう要求されている。
いわゆる、特別保育事業の類がそうと言える。
長時間保育や一時預かり保育、休日・祭日保育などが新聞やテレビなどで報道されると、全ての保育園がそうなると、親は思ってしまう。
特別な例は特別に対応してもらいたい。そうでないと保育園は本来なすべき仕事ができなくなってしまう。一般的な保育園は0歳から5歳までの人間として一番大切なこの時期の保育・教育の部分に力を注げなくなる。カリキュラムが形骸化し、目に見えないところで保育園の教育的配慮が減ってきていることに気づいている人は少ないのではないか。そもそもカリキュラムを作ったり、検討し直す時間が与えられていないのだ。
保育園を便利屋にした上に、いろいろな特別事業を行い、それはそれは沢山の機能を果たすよう要求されてきている。
それぞれ、専門的な知識が必要なものばかりであるのに、人的配置も補助も十分でなく、そのような仕事をいただく。保育園にもできることには限度がある。
そのうち、子ども問題が噴出し、根を上げる保育園が続出するだろう。そしてその裏で、一番大切な、子どもたちの教育的配慮が消えてしまっていくのである。
実際、子どもたちの年齢に応じた保育・教育環境を整えるだけでもかなりのエネルギーが必要とされる。本来の仕事に力が入れられなくなってしまうのでは、困るのである。
私は乳幼児の保育・教育の部分に「遊びながら学ぶ」という方針の元で、この20年間、力を注いできたので余計にそう思うのだが、それだけでも大変な仕事である。
大事なものは失いたくない。私は多様になった親のニーズを全て保育園に対応させようとする考えが間違っていると思う。限度を知らなくてはいけないのだ。
 

児童福祉法の改正で一番困ること (保育園の顔が親に向く)

今回の児童福祉法の改正で、保育園には競争の原理が吹き込まれ、「選ばれる保育園」というシナリオが組まれた。競争の原理という伏線を敷くと、行政は更に多くの要求を保育園にしむけることができる。「そうしないと選ばれるような保育園にはなれませんよ。」「時代から取り残されますよ」と。
保育園も子どもたちがこなければ、経済的に成り立たなくなる。国の施策に従わないと補助金も出ない。背に腹はかえられないから、保育園は従わざるをえないだろう。保育園は行政に簡単にはNO!と言うことができない仕組みになっている。
保育園を選択するのは主に母親だ。商売はターゲットをきちんと把握しなくてはならない。当然、保育園の顔は子どもよりも、親に向くようになる。サービスは一段と増し、働く親が求めるものを取りそろえる。そのうち保育園は「何でもあり」の体のいい便利屋に成り下がるだろう。
最近、多摩市のある幼稚園では夜9時までの保育を開始したそうだ。開いた口がふさがらない。家庭をぶちこわすサービスが競って繰り広げられている。3年後にはどのような恐ろしい状態になるのだろうか。
そして、残念ながら競争原理が仕組まれた保育所にはリストラの嵐が吹くであろう。経験のある保育士はコスト的に高いので切り捨てられ、新任の保育士が大勢になるだろう。それも3年から5年で採用・退職のサイクルが組まれそうである。結果的に子どもたちのいろいろな問題は小学校にそのまま送り込まれる。小学校の状況は更に悪化するという訳だ。
家庭には家庭の役割がある
どうして国の最高機関にある人たちがわざわざ家庭(国の礎になるものを)を弱めてしまうような方針を決定するのか私には不思議である。
親との関係を作ることができなければ、子どもたちは子どもになれない。親だって、親になれない。だれが、子どものことを考えるのだ。これがどうして児童福祉だ!と叫びたい。
精神科医の原田正文さんは、1980年1年間に大阪府下にあるひとつの市に生まれたすべての子ども約2000名を対象に、出生時から小学校入学までの6年間、子どもの成長にそって6回(4カ月、7カ月、11カ月、1歳6カ月、3歳6カ月、小学校入学後)にわたって育児の実態調査を行った。その結果は『大阪レポート』としてまとめられた。それによると、
『大阪リポートから』

  1. 子どもは母親を中心とする養育環境に驚くほど影響を受けて育つことが分かった。
  2. 子どもの心身の発達にいい影響を持つ関わりは従来から心理学などで「いい子育て」といわれている親の関わりばかりである。
  3. 子どもの反応の仕方はきわめて妥当なものばかりで、子ども自身は何も変わっていない。
  4. 他方、養育環境そのものは首をかしげざるを得ないものが多く、現代の育児の特徴として、『育児不安と母性性の危機』をあげざるをえなかった。

「もうなくしたい子どもの悲劇」(童心社編)汐見稔幸+子どもの文化研究所
「いい子育て環境をみんなでつくり、思春期に花ひらく子育てを」
原田正文著 原田氏は母親と子どもの関係の大切さを、具体的な方法を加えながら切々と訴えている。
 

子どもの叫びが子育てや保育に求めるもの

また、兵庫県にある日本では初めての十代後半の不登校生の県立のフリースクール「神出学園」の学園長である小林剛先生は
「子どもたちが幼少期から人との関わりが希薄であり、対人関係のあり方を獲得できず、自己中心性のみが肥大化し、結果として自己コントロールができない子どもとして育ってきたのではないか。・・・
それは、親の子育てからの退却という現象である。ここ数年私たちの教育現場には「子どもなんていらない」「子どもの世話で何もできない人生なんてつまらない」「子どもに何が起きてもそれは子どもの人生なんだ」。こんな声が多くなった。
荒れを生み出す子どもたちの背後に親業からの退却が見られる。このことは子どもの側からすれば、愛されて育つという実感が持てず、子どもの情緒は不安定になり、子どもは小学校中学年頃から親を見限り、数々の校内外での問題を引き起こしていく。
それは子どもからすれば、問題を起こすことによってしか、親はこちらを真剣に向いてくれない心理として表れる。」
小林先生はそれまでの臨床例から思春期入り口から青年期にかけて問題を抱える子どもたちの多くが、幼少期の発達の過程で、周囲の大人や親に真の意味で愛情に満ちた育てられ方をしてきていないということが明らかになったことを調査や臨床例として指摘している。
これだけ、家庭の大切さを訴えるリポートがありながら、どうして世の中は反対の方向へ向かってしまうのか。
平成十一年四月より、モデル保育所として24時間開所する保育所が厚生省の指導で出現するという話を聞いた。こうなると、保育園はコンビニとしか言いようがない。
厚生省の発想そのものに、日本の社会を崩壊させてしまう要素があることを訴えたい。国の根幹をなす保育の問題を司る担当者の良識を私は完全に疑うのである。保育園は便利屋を通り越してしまった。
この国は子どもたちからの反逆にあって、初めて自分たちの間違いを理解するのだろう。だが、もうとっくにその反逆は始まっている。
 

連絡を下さい。 手をつなげないでしょうか。

実際、精いっぱい努力している保育園はたくさんあると思う。保育の実践を通して保育の価値を両親に伝え、子どもたちが健全に育っていく保育園もたくさんある。
しかし、このまま時代の趨勢が決まっていけば、そういった努力もやがて消えていく。
そうなったときに後悔しても始まらない。学校が学校でなければできないことを失っていったと同じように、保育園も保育園でなければできないことを失っていく。
保育園に対する対策を怠ることが、大きな社会財産を失い、それが巡りめぐって、子どもたちや保護者にどれだけの不利益をもたらすかを考えたとき、私は今、やらなくてはならないことを保育園が主張しなくてはいけないと思う。日本を崩壊させるわけにはいかない。